花と雪

マイ・ショートストーリー。短編小説やおとぎ話たち。

悲しみの温度


繁華街から少し外れた場所にその店はあった。
隠れ家みたいな小さなショットバーで、
その店のマスターは占いが得意だった。

初めて友人のマリに連れられてその店を訪れた時、
マスターはマリの話を一通り聞いた後に彼女の手の平を握って手相を見始めた。

正直、私はその光景がインチキ臭いと思ってくすりと笑っていた。
飲み屋でよくあるコミュニケーションの一つ。
本当は占いなんてできないのに、スキンシップを取りたいがために女性の手を握っているだけだとマスターを心の奥で鼻で笑っていたのだ。


私は占いというものを信じない。
多分、信じない。
テレビで占いランキングなんかが流れても、一応は見るけどすぐに忘れてしまう。
忘れてしまうということは、信じないということに等しい。
そう思っていた。


その時のマリの相談事というのは、付き合っている彼氏と上手く行ってなくて
別れるべきかどうかといった内容だった。
マスターは彼女の手相を見た後に
「彼には他に好きな女性がいるかもしれない」と言って彼女の手の平を静かにふさいだ。

正直、占いを信じない私は嘘くさいと思ったし、マリも笑いながらマスターに問い詰めた。
「彼に他に好きな女がいるって、それは誰ですか?」
「いや、僕はそこまではわからないけど、だけど」
「だけど?」
「だけど、君にも他に好きな男性がいるんじゃない?」


そんな馬鹿な。そう言って笑った私の横でマリはぽかんとした顔で言葉を失っていた。


数日後、マリは彼氏から突然別れを告げられ、その理由を問い詰めたところ
「他に好きな女性がいる」と言われたそうで
結果、彼女は失恋をしてしまった。
だけど、失恋をしたはずの彼女は泣きもしなければやけ酒を飲むこともなかった。


マスターの言う通りだと思った。
マリは失恋と同時に新しく始まった恋に忙しくしていたのだ。
つまり、彼女にも他に好きな男性がいたということだ。


占いを信じない私でも、その事実には驚いたもので、
マリはその店を訪れる度に、新しい彼氏のことや仕事のことなどをマスターに相談しては何度も手の平を広げていた。

でも私は彼女の占いの結果を横で聞くだけで、一度もマスターに自分の手の平を見せたことがなかった。
なぜなら、占いは信じないから。
そう思っていたはずなのに、本当の理由は違う。

怖かった。
自分の心の中をのぞかれるのが怖かったのだ。


占いの得意なマスターがいるその店に初めて訪れた時、
私は結婚していたが家出をしていた。
当時、私は共働きをしながら都内のマンションで夫と二人で暮らしていた。
夫はお酒が大好きで、それと比例してすこぶる酒癖が悪く、酔っては暴れて私を困らせた。
それでは体のあたこちが痛いし、とにかく怖い。
私はある日、普通に会社に出勤した帰り道、気が付くといつもと違う電車に乗って実家に帰ってしまった。
それが私の家出の始まりで、それ以来、夫の待つマンションには戻ることはなく、夫から毎日届く呪いのようなメールや数百件の着信に返信することもなく、私はひたすら貝のようになっていた。
数ヶ月が過ぎた頃、いつまでたっても嫁が戻ってこないという世間の体裁を気にした夫の両親が私の元に現れ離婚届けを置いていった。そして私は離婚した。

その時はそれで良かったと自分を信じたものの、次第に
自分の選んだ道には、結果的に傷を負う人がたくさんいるのではないかと思い始めていた。
あなた達には子供がいなかったからまだいいわよと、励ましてくれた人もたくさんいた。私も最初は二人だけの問題で傷つくのも私と夫だけだと思っていたけど、私たちには親もいれば兄弟もいるし甥っ子や姪っ子、親戚や友人達、隣近所も四方八方たくさんいる。
離婚してしまえばそれは過去形であるはずなのに、傷を作っているのは現在進行形なような気がして胸が苦しくて、痛くて、うまく笑うこともできなくなっていた。

離婚届を区役所に出しに行った帰り道、占いを信じない私は初めて一人でその店を訪れた。
マスターはグラスにビールを注いだ後に、何も言わない私に向ってこう言った。

「手の平を出してごらん」


占いを信じない私は手相を見てもらうつもりなんて無くて、
しばし、マスターのその言葉に戸惑っていると
「ほら、早く手の平を広げて」とマスターの催促によって渋々と手の平を差し出した。
これが私の手相デビューかと思った瞬間、私の手の平には氷がひとつ、
ぽとりと乗せられた。

マスターは私の手相を見ることも無く氷を手の平に置くとこう言った。

「悲しみなんてものは、氷みたいなものなんだよ」

それは冷たくて痛くもあった。

私の手の平に乗せられた氷はどんどんと溶けて、
ほどなくして小さく消え掛けていた。


それが悲しみの温度。
大丈夫、やがて溶けて消えるから。
 
私は占いは信じない。
だけど、マスターのその言葉は信じれると思った。