花と雪

マイ・ショートストーリー。短編小説やおとぎ話たち。

海に降る雪


ふと気付いた。
最近、泣いてないな。と。
窓の外には今年一番の雪が降り積もっていた。


別に泣かないと決めたわけではなく
心が乾いたなんて格好いいものでもなく
ドラマやドキュメント番組を見れば泣いちゃうけど
そういう意味の泣くということではなく
誰かを想って涙を流すということ。
もう、ずいぶんとそんな涙とはご無沙汰だ。


つまり恋をしていない。
そんなことに今更気付いたのは、今日も雪が降っていたからだろうか。



高校生の頃に付き合っていたケンちゃんとの恋も冬に始まった。

その日も私は茶の間のコタツに寝転がってテレビを見ていて、
なんとなく鳴った電話になんとなく手を伸ばすと
受話器の向こうからケンちゃんの声が聞こえた。
久しぶりだね?暇なの?どうしたの?
他愛もない会話の数分後、ケンちゃんは公衆電話に十円玉を落とす音を響かせた後にこう言った。
「好きなんだけどさ」

それはまるで天地がひっくり返るほど嬉しかったのに、
私はただ黙って受話器を握るばかりで、
心拍数を抑えることも言葉を発することも出来ずに黙りこんでしまった。
するとケンちゃんはこう言った。
「今週の土曜日、会える?」
私はうなずいた。うなずいた後に再び受話器の向こうで十円玉を落とす音が聞こえると
これは電話なんだということに気付いて私は声を振り絞った。
「うん」
たったひとこと。それが精一杯。
私の想いの全てだった。


それから私はケンちゃんと付き合い始めた。
当時はまだ携帯電話なんてものが無かったから
バイト帰りにケンちゃんは毎晩のように公衆電話から電話を掛けてくれて
その時間が近づくと私は自宅の電話を膝に乗せて電話が鳴るのを毎晩待った。

別々の高校に通っていた私達はたまに学校帰りには喫茶店で待ち合わせたり、
土曜日には毎週バスに乗ってケンちゃんの家に向った。

ケンちゃんの家の庭には桜の木があって、春にはその桜を二人で眺めて、
夏休みには電車に乗って原宿のクレープ屋さんに並んだりもした。

そして枯れ葉が舞い落ち始めて秋が訪れたある日、ケンちゃんはこう言った。
「冬になったら、海に降る雪を見に行こう」


海に降る雪は冷たくないんだよ。
溶けるようにゆっくりと海に落ちて、それは星座なんかよりも数え切れないほどの美しさで、まるで無限の宇宙みたいなんだよとケンちゃんは言った。
だから、海に降る雪を見に行こう。
ふたりだけの宇宙を見に行こう。

私は冬を待った。
ケンちゃんの部屋で過ごす時間はいつもあっという間に過ぎてしまい、
帰りのバスの時間がどうしてこんなに早く訪れてしまうのだろうと思う度に
時間なんて止まってしまえばいいのにといつも願っていた。
だけど私は冬が訪れることを心待ちにしていた。
今年は早く雪が降って欲しいと祈った。
海に降る雪。そんな、無限の宇宙を早く見たいと冬を待った。

 
だけど、その約束は果たされることはなかった。
冬が訪れて間もない頃、ケンちゃんは親の転勤で遠い町へと引っ越すことになってしまい、私達は離ればなれになった。

ケンちゃんと過ごした最後の土曜日。
その日は雪が降っていた。
ケンちゃんの家からバス停に向う道のりまで私達は何も言わずに降り積もった雪を踏みしめ
バス停にたどり着くとケンちゃんはぽつりとつぶやいた。
「ごめんな」

お別れのその時が来ても、私は絶対に泣かないと自分に約束したのにぽろぽろと涙を落としてしまった。

何度も二人で並んで立ったバス停。
それは、もう二度と訪れることもないバス停。
泣いている私の横でケンちゃんは手を繋いだまま静かに座り込み、
私が落とした涙でくぼんだ雪を見つめてケンちゃんはこう言った。
「海ができてるよ」


それはとても小さな海だった。
私もケンちゃんの横に並んでしゃがみこみ、その小さな海をぼんやりと見つめていた。
私の涙が作った海には次々と雪が落ちていた。

それは星座なんかよりもはるかに少ない雪だったけど
溶けるようにゆっくりと落ちていた。

私とケンちゃんには永遠はなかったけど
そこには無限の宇宙があった。
思い出は星みたいにきらきらしてて、これからもずっと記憶という夜空に瞬き続けるだろう。

海に降る雪。
それはつめたくなかったよ。
むしろ、温かかった。
心が溶けるほどに。



悲しみの温度


繁華街から少し外れた場所にその店はあった。
隠れ家みたいな小さなショットバーで、
その店のマスターは占いが得意だった。

初めて友人のマリに連れられてその店を訪れた時、
マスターはマリの話を一通り聞いた後に彼女の手の平を握って手相を見始めた。

正直、私はその光景がインチキ臭いと思ってくすりと笑っていた。
飲み屋でよくあるコミュニケーションの一つ。
本当は占いなんてできないのに、スキンシップを取りたいがために女性の手を握っているだけだとマスターを心の奥で鼻で笑っていたのだ。


私は占いというものを信じない。
多分、信じない。
テレビで占いランキングなんかが流れても、一応は見るけどすぐに忘れてしまう。
忘れてしまうということは、信じないということに等しい。
そう思っていた。


その時のマリの相談事というのは、付き合っている彼氏と上手く行ってなくて
別れるべきかどうかといった内容だった。
マスターは彼女の手相を見た後に
「彼には他に好きな女性がいるかもしれない」と言って彼女の手の平を静かにふさいだ。

正直、占いを信じない私は嘘くさいと思ったし、マリも笑いながらマスターに問い詰めた。
「彼に他に好きな女がいるって、それは誰ですか?」
「いや、僕はそこまではわからないけど、だけど」
「だけど?」
「だけど、君にも他に好きな男性がいるんじゃない?」


そんな馬鹿な。そう言って笑った私の横でマリはぽかんとした顔で言葉を失っていた。


数日後、マリは彼氏から突然別れを告げられ、その理由を問い詰めたところ
「他に好きな女性がいる」と言われたそうで
結果、彼女は失恋をしてしまった。
だけど、失恋をしたはずの彼女は泣きもしなければやけ酒を飲むこともなかった。


マスターの言う通りだと思った。
マリは失恋と同時に新しく始まった恋に忙しくしていたのだ。
つまり、彼女にも他に好きな男性がいたということだ。


占いを信じない私でも、その事実には驚いたもので、
マリはその店を訪れる度に、新しい彼氏のことや仕事のことなどをマスターに相談しては何度も手の平を広げていた。

でも私は彼女の占いの結果を横で聞くだけで、一度もマスターに自分の手の平を見せたことがなかった。
なぜなら、占いは信じないから。
そう思っていたはずなのに、本当の理由は違う。

怖かった。
自分の心の中をのぞかれるのが怖かったのだ。


占いの得意なマスターがいるその店に初めて訪れた時、
私は結婚していたが家出をしていた。
当時、私は共働きをしながら都内のマンションで夫と二人で暮らしていた。
夫はお酒が大好きで、それと比例してすこぶる酒癖が悪く、酔っては暴れて私を困らせた。
それでは体のあたこちが痛いし、とにかく怖い。
私はある日、普通に会社に出勤した帰り道、気が付くといつもと違う電車に乗って実家に帰ってしまった。
それが私の家出の始まりで、それ以来、夫の待つマンションには戻ることはなく、夫から毎日届く呪いのようなメールや数百件の着信に返信することもなく、私はひたすら貝のようになっていた。
数ヶ月が過ぎた頃、いつまでたっても嫁が戻ってこないという世間の体裁を気にした夫の両親が私の元に現れ離婚届けを置いていった。そして私は離婚した。

その時はそれで良かったと自分を信じたものの、次第に
自分の選んだ道には、結果的に傷を負う人がたくさんいるのではないかと思い始めていた。
あなた達には子供がいなかったからまだいいわよと、励ましてくれた人もたくさんいた。私も最初は二人だけの問題で傷つくのも私と夫だけだと思っていたけど、私たちには親もいれば兄弟もいるし甥っ子や姪っ子、親戚や友人達、隣近所も四方八方たくさんいる。
離婚してしまえばそれは過去形であるはずなのに、傷を作っているのは現在進行形なような気がして胸が苦しくて、痛くて、うまく笑うこともできなくなっていた。

離婚届を区役所に出しに行った帰り道、占いを信じない私は初めて一人でその店を訪れた。
マスターはグラスにビールを注いだ後に、何も言わない私に向ってこう言った。

「手の平を出してごらん」


占いを信じない私は手相を見てもらうつもりなんて無くて、
しばし、マスターのその言葉に戸惑っていると
「ほら、早く手の平を広げて」とマスターの催促によって渋々と手の平を差し出した。
これが私の手相デビューかと思った瞬間、私の手の平には氷がひとつ、
ぽとりと乗せられた。

マスターは私の手相を見ることも無く氷を手の平に置くとこう言った。

「悲しみなんてものは、氷みたいなものなんだよ」

それは冷たくて痛くもあった。

私の手の平に乗せられた氷はどんどんと溶けて、
ほどなくして小さく消え掛けていた。


それが悲しみの温度。
大丈夫、やがて溶けて消えるから。
 
私は占いは信じない。
だけど、マスターのその言葉は信じれると思った。
 
 
 




 
 

真夜中の冷蔵庫



人は生まれてからいったい、何人の人と別れるんだろう。
ふと、そんなことを考えてみたりしたけど、すぐやめた。

そんなことより、いつもよく行く居酒屋さんで今日も食べて来た「カリカリふわふわ唐揚げ」という名前の唐揚げ。
その唐揚げの作り方の方が今の私には、はるかに興味があった。

あのカリカリなのにふわふわな衣には絶対に何か特別な作り方があって、それは単に片栗粉だけで作っていないことは確かで、卵白を混ぜているとか、小麦粉もしくは強力粉?
なんてことをあれこれ想像してみたりしたけど、何度作ってもあの居酒屋の「カリカリふわふわ唐揚げ」と同じような唐揚げはいまだに作れない。残念なことながら。
そう、私は意外と無力だ。まったく、そうだ。
 
一週間前。付き合っていた彼氏から突然、戦力外通告を受けた。
つまりふられてしまった今の私にはあらゆる気力が失われたままだった。
なんで私じゃだめだったんだろ。私の何がいけなかったんだろ。私の何が足りなかったんだろ。
日中は仕事をしてるからなんとか気を紛らわすことができるけど、夜になればそんなことばかりを考えてしまって、苦しくなる。

そんなことより、明日の朝ごはんは何を食べようかと真夜中に冷蔵庫の扉を開けてみた。
納豆は食べたくないな。卵はあるけど目玉焼きを作るのも面倒だし、ウインナーは残り一本ってどういうこと?一本で何をどう作れって言うの?

冷蔵庫の中に向ってそんな独り言を呟いた。

真夜中のキッチンは好き。時折、か弱いモーター音を奏でる冷蔵庫の扉を開けて、オレンジ色の明かりに頭を突っ込んむそのひとときは、孤独だけど幸福だと思う。

明日は何を食べよう。冷蔵庫の中にはそんな希望が存在するから。

それにしても、どうしていつも冷蔵庫のポケットの部分には賞味期限が切れたドレッシングが入っているのだろう。
半分以上も残ったままのドレッシング。
賞味期限が切れているのになぜか捨てられない。捨てたくない。いや、捨てるタイミングを忘れてしまってるだけ?
私はそのドレッシングを捨てることができずに、いつまでもそれを冷蔵庫の中であたためている。
だって、捨てられないんだもん。賞味期限が切れてたって捨てられない。
好きだから。好きだったから。

真夜中の冷蔵庫。そこには孤独と希望が存在する。
オレンジ色の明かりは時間を止める。そして時には時間を巻き戻してくれるようなそんなありえないことまでも期待させてくれる。腐らないように、冷たく大切に、あたためてくれるんでしょ?
この酔って熱くなった頭の中にある記憶も、大切に時間を止めてくれるんでしょ?

そんなことを呟いても、何も返事は返って来ない。

まるで一緒だと思った。
戦力外通告。別れのその理由をたずねても教えてくれなかったあの人と同じだ。
 
私は賞味期限の切れたドレッシングを見つめて冷蔵庫の扉をそっと閉じ、あの居酒屋の「カリカリふわふわ唐揚げ」の衣の作り方について再び考え始めた。

卵白を使ってるのか、小麦粉なのか、片栗粉なのか?
やっぱりそれも考えてもわからないから、別のことを考えることにした。

人は生まれてからいったい、何人の人と出会うんだろう。

別れの数ではなく、出会いの数を数えてみた。

なんだか、幸せな気持ちになった。

 

ショパンの調べ

雨音はショパンの調べ。というから
ショパンのCDを買ってみた。
クラシックなんて全然わかりもしないし、ショパンなんて音楽の授業の時間に聞いたことはあるけどこくりこくりと居眠りしてしまってたし、
何がどう雨音の調べなのか?
それが知りたくて買ったCDを聞いてみたものの、私には屋根を叩く雨の音も、雨樋をしたたるその音も、
ショパンのその曲の中に見つけることはできなかった。
雨の中にショパンなんて、ちっとも聞こえなかった。

そんな十代。



誰かと一緒に見た映画の中で流れていたあの曲。
それもショパンだった。
有名なあの曲。
そう、ショパンの「別れの曲」。
十代の頃に買ったショパンのCDの中にこの曲も入っていたなぁ。
そんなことを思い出しながら私はその映画を見ていた。
その映画を一緒に見た誰かとも、やがて、さよならのラストシーンを迎えてしまって
あの人は元気かな?
私達はどうして終わってしまったのかな?

そんなことを思って、たまにほんのすこし、すこしだけだよ
僅かに哀しくなった。

泣いてないよ、まぶたは濡れていない。
だけど、なぜだろう、
せつない、かなしい、いやだよ。
傘が重くて持ちきれない。

そんな二十代。




心の奥で降りそそぐあの曲。
別れの曲。

懐かしさと、遠い記憶が雫のように降りそそぐ。
ぽたり、ぽたりと、心に落ちる。

出会いと別れと
別れと出会い。
いくつもくりかえす、出会いと別れ。

涙の数が多くなったような気がする。
もしかして、雨音は涙の調べ?
ショパンを聴きながら、そんなことに気付いた
三十代。


でも、傘があるんだよね。
そう思いながら傘を広げて私はくすりと笑った。

一緒に笑ってくれる友達。
一緒に泣いてくれる仲間。
私にはそんな傘がありました。


くるくると傘を回してくれる。そして雫がきらきらと飛び散る。
悲しいけど、つらいけど、くるしいけど
でも大丈夫。
私にはそんな傘があるから。



今夜も雨は降り続ける。
きっとショパンは微笑みながら
やさしく、
こう奏でている。


その傘を大切にしなさい。




 
 

オムライス

後にも先にも、お弁当というものを誰かに作ったというのは彼だけだったかもしれない。


彼は私が18の頃に通い始めた専門学校の一つ上の先輩だった。

一つ上の先輩といっても、専門学校ということもあって、彼は実際には私より四歳年上だった。

一度企業に就職をしたもののその会社を辞め、自分のやりたいことを求めて専門学校に通った彼は

まわりの生徒が自分よりも年下ということで、なんとなく彼はいつも同級生とは距離を作っていた。


授業の合間に校舎の自動販売機のある一角で彼は紙コップに入ったコーヒーを片手に持ちながら

窓の外をぼんやりと見つめて煙草の煙を泳がせていた。



その横顔がなんだか寂しそうに見えて私は躊躇することなく彼に声をかけた。

多分、それはきっと、一言で現すのならばこんな感じだったのかもしれない。

ひとめぼれ。


ぼんやりと窓の外をながめている彼に私はこう訊ねた。

「その空に何が見えるんですか?」

空っぽになった紙コップに煙草の火を押し消して彼は笑いながらこう答えた。

「見えないものだよ。」

ほんの少し、彼の機嫌を損ねてしまったかもしれない。


その時、私はそう思って少しだけ後悔した。



なぜなら彼は私が話しかけてすぐに無造作に紙コップをゴミ箱に投げ、その場を立ち去ってしまったからだ。




よけいなことを聞いてしまったかな。

そう思って立ちすくむ私の前を通り過ぎたその時、彼は立ち止まって私に向ってこう言った。

「見えないものほど大切なんだよ」





それから何度かその校舎の自動販売機がある一角で彼の姿を見つける度に

なんとなく二人でたわいもない話をしたり、

なんとなく窓の外の空をながめたりもした。



そして日曜日には二人で美術館を訪れた。

その帰りに動物園に行って、ちっとも動かずに寝てばかりいるカバをいつまでもながめたり

色鮮やかなマンドリルの毛なみの色をひとつひとつ数えては

その色が二人の両手では足りないと笑い合ったりもした。



いつの間にか私と彼はそんなふうに同じ時間を歩き、笑い、たくさんの言葉をかわし、


気が付くと私達は一般的な恋人という関係になっていた。





そんなある日、彼がこう言った。

「明日は、お互いにお弁当を作って交換しない?」



それまで私は自分以外の誰かのためにお弁当なんてものは作ったことがなかったけど、

たまにおにぎりを握って専門学校に通っていたので、

その日も彼の提案をこころよく受け入れ、むしろ楽しみでもあり、

梅干とタラコのオニギリに、タコさんのウィンナーと、甘い卵焼きを添えたお弁当を彼に手渡した。



すると彼も約束通りお弁当箱を私に手渡し、無事にお弁当の交換を済ませた。


だけど私の渡したお弁当はいちおうのところ、バンダナで包んでいたのに

彼から受け取ったお弁当は、バンダナもハンカチにも包まれていない、むき出しのアルミのお弁当箱で

なんだか味気ないなと言ったら彼に申し訳ないと思いながら、そのアルミの蓋を開けると

お弁当箱の中は卵の黄色。その一色だった。



それはオムライスだった。

黄色一色は、オムライスを包む卵の色。




美味しかったよ。

私はそう言って空になったアルミのお弁当箱を手渡しながら、ちょっとの不満を彼に添えた。


だけどね、蓋を開けて卵一色ってどうなのよ?

オムライスは美味しかったけど、卵の上にケチャップでハートマークなんか書いてくれてもよかったのに。



私がそう言うと、彼はほんのすこし、鼻で笑ってこう言った。


ハートは書いたよ。ケチャップライスを作る時に、フライパンの上で何度もハートを書いたよ。



そして彼は私のおでこを突っついてこう言った。


本当に大切なものは見えないんだよ。


このオムライスみたいにな。



彼が指差したお弁当箱は空っぽになっていたけど

そこには見えないものがたくさん詰まっていたような気がした。



たとえば、それはたった一文字の大切なもの。


愛。

はんぶんの月

月は毎日、形を変える。
まあるくなったり、細くなったり、半分になったり。


「その理由はなんでか知ってるか?」
電話の向こうで彼は、ある晩そう言った。


それは潮の満ち欠けによって。
ありきたりのことだと思いながら私がそう言うと
電話の向こうで笑い声がひびいた。
「ありきたりやな」


関西弁なまりの彼と私は当時、遠距離恋愛をしていた。
私が「ありきたり」だと思うことを「ありきたり」と言い切ってくれる。
それは私の思いや気持ち、心を両手でつかんでくれてるようで
離れていても、会えなくても、私はそんな彼が好きだった。



だけど飛行機雲は嫌いだった。

空を見上げて私の空に一本の真っ直ぐな飛行機雲が描かれていても
それは、彼の見上げた空には描かれていなくて
そんな時は、二人の間の距離というものを現実的に感じて
たまらなく胸がしめつけられた。



だからなのだろうか。
ある日から、彼は月の話をよくするようになった。

今日は三日月やな。
今日は満月やな。
今日は月が半分やな。


彼がそういう度に私は携帯電話を握ったまま窓を開けて、
月を見た。
いつでも、彼と同じ月だった。



あれからずいぶんと時も過ぎ
お互いに年を取り、
それぞれの空の下で、それぞれの毎日が流れている。

彼と別れた理由も今では忘れそうなくらいに
とても遠い思い出になってしまったけど
なぜだろう。
今朝、明け方になんとなく目が覚めて
カーテンの隙間から窓の外を見上げると
朝が訪れはじめた空に、ピンク色の半月がぽっかりと姿を残していた。


その半分になった月を見ながら彼の言葉を思い出した。


「月がどうして半分になるか知ってるか?」
「潮の満ち欠けだから」
「ありきたりやな」


そう言った後に彼は電話の向こうで笑うだけだったのに
数日後、一枚のポストカードが届いた。
月のクレーターまでもありありと映され、その半分はうっすらと陰になっている半月のポストカードだった。
その隅に、彼の文字が一行だけ綴られていた。

「悲しみ、半分。」
 
今朝見た明け方の月を私は笑った。
もう、ずいぶんと時が流れてしまったのに
ポストカードの文字を思い出して笑った。
ありきたりじゃなくて、救われるように笑った。


半月は、悲しみが半分になるんやな。


インチキな関西弁をつぶやいてみたら
彼に怒られるかもしれないと思いながら月に笑った。


笑いながら、本当だと思った。



なぜだろう。


月は半分だったのに、
心は、まあるくなった。



それは、ありきたりでもなく、
嘘でもなく、
本当のことだった。



 
 
 

賞味期限

夕方のスーパーマーケットで私は何度も足を止められた。
あれこれ食材をカゴに入れる私の横で度々、彼女のストップがかかったからだ。


「それ、賞味期限が近いんじゃない?」


確かにそうだった。
空腹だったということもあって陳列している商品を品定めもせずに
手っ取り早く一番前に並べられている物ばかりをカゴに入れる私に
「そんなんじゃダメよ」と言って、
彼女は一番奥に並べられた商品を手に取りそれをカゴに入れ直した。


昔からそうだった。
彼女とはちょくちょくお互いの家で一緒に夕飯を作って二人で食べることが多くて、
買い出しの時にスーパーで私が手に取った食材の賞味期限をチェックしては
「そんなんじゃダメよ」と言っては、
できるだけ新しい数字が刻まれている物をカゴに入れ直すのが彼女の得意技だった。


これからすぐに調理して食べるものなんだから、賞味期限なんて別にどうでもいいんじゃないか。
そう言う私に彼女の答えはいつも同じだった。
「そんなんじゃダメよ」

 

今日もやはり彼女の得意技が姿を現し、あれこれと品物の裏側の日付をチェックし
そのカゴを持って私達はレジに向った。
今まで、何十回も、いや、もしかしたら何百回も一緒にスーパーを訪れては
二人でいろんな料理を作ってくだらない話をして過ごした晩餐。
それは、今日が最後になる。


彼女は来月から転勤で遠い町に移動になったため、
今夜は彼女の転勤祝いだった。


私達が十数年共にした買出しや晩餐。
それもこれが最後なのかと、ほんの少し感傷に浸る私の目の前で
バーコードを通す音はリズムよく事務的に響いていた。
 

その晩のメニューはキムチ鍋。
二人で鍋をつっついて、やがて旅立つ彼女に対してできるだけ感傷にひたらないようにと
私はいつものようにどうでもいい話を笑い話しにしていた。


ありきたりで、あたりまえ。
そんなことを大切に鍋をつっつく私に突然、彼女はこう言った。
「彼とはどうなの?」


私には好きな人がいた。
だけど、結果的にも現状においてもそれはどうにもこうにもならない
実のない、実ることのない関係だった。


ひととおり鍋をつっついた後に最後の肉をお箸に挟んで彼女はこう言った。
「待つだけの恋なんて、そんなのダメじゃん」


なにがダメなのか?
そう訊ねる私に彼女はこう答えた。


恋愛にだって賞味期限はあるでしょ。

 

確かにそうかもしれない。
そう思いながら、
私は彼女のようにそんなに割り切って答えを出す術は持ち合わせていなかったので
たとえるならば、それは缶詰だと答えた。


いろんな思いを缶の中に詰め込めば
それは永久に存在し続ける。
それはとても特別で誰にも開けられることのない缶詰だと。


そう信じていると言った私に
食器を洗い終えた後に彼女は食後のデザートにミカンの缶詰をおもむろにテーブルに置いた。
賞味期限の切れた缶詰だった。

 

それを缶切りで開けて食べるか。
そこまでして食べるかどうか。

 

彼女はそう言って私に缶切りを渡した。
だけど私はその缶詰を開けることはしなかった。

 

いくらなんでも、
缶詰にだって賞味期限がある。

それよりも
それ以前に人の心は生ものだ。


そんなことに気付いて缶切りをテーブルに置いた私に彼女の声が響いた。
「そんなのダメじゃん」


そして彼女はこう言った。

「新しい恋を切り開かなくちゃ」

 

確かにそうだ。
そう思って私は笑った。
久しぶりに笑った。


それは

悲しみの賞味期限が切れた瞬間だった。