花と雪

マイ・ショートストーリー。短編小説やおとぎ話たち。

オムライス

後にも先にも、お弁当というものを誰かに作ったというのは彼だけだったかもしれない。


彼は私が18の頃に通い始めた専門学校の一つ上の先輩だった。

一つ上の先輩といっても、専門学校ということもあって、彼は実際には私より四歳年上だった。

一度企業に就職をしたもののその会社を辞め、自分のやりたいことを求めて専門学校に通った彼は

まわりの生徒が自分よりも年下ということで、なんとなく彼はいつも同級生とは距離を作っていた。


授業の合間に校舎の自動販売機のある一角で彼は紙コップに入ったコーヒーを片手に持ちながら

窓の外をぼんやりと見つめて煙草の煙を泳がせていた。



その横顔がなんだか寂しそうに見えて私は躊躇することなく彼に声をかけた。

多分、それはきっと、一言で現すのならばこんな感じだったのかもしれない。

ひとめぼれ。


ぼんやりと窓の外をながめている彼に私はこう訊ねた。

「その空に何が見えるんですか?」

空っぽになった紙コップに煙草の火を押し消して彼は笑いながらこう答えた。

「見えないものだよ。」

ほんの少し、彼の機嫌を損ねてしまったかもしれない。


その時、私はそう思って少しだけ後悔した。



なぜなら彼は私が話しかけてすぐに無造作に紙コップをゴミ箱に投げ、その場を立ち去ってしまったからだ。




よけいなことを聞いてしまったかな。

そう思って立ちすくむ私の前を通り過ぎたその時、彼は立ち止まって私に向ってこう言った。

「見えないものほど大切なんだよ」





それから何度かその校舎の自動販売機がある一角で彼の姿を見つける度に

なんとなく二人でたわいもない話をしたり、

なんとなく窓の外の空をながめたりもした。



そして日曜日には二人で美術館を訪れた。

その帰りに動物園に行って、ちっとも動かずに寝てばかりいるカバをいつまでもながめたり

色鮮やかなマンドリルの毛なみの色をひとつひとつ数えては

その色が二人の両手では足りないと笑い合ったりもした。



いつの間にか私と彼はそんなふうに同じ時間を歩き、笑い、たくさんの言葉をかわし、


気が付くと私達は一般的な恋人という関係になっていた。





そんなある日、彼がこう言った。

「明日は、お互いにお弁当を作って交換しない?」



それまで私は自分以外の誰かのためにお弁当なんてものは作ったことがなかったけど、

たまにおにぎりを握って専門学校に通っていたので、

その日も彼の提案をこころよく受け入れ、むしろ楽しみでもあり、

梅干とタラコのオニギリに、タコさんのウィンナーと、甘い卵焼きを添えたお弁当を彼に手渡した。



すると彼も約束通りお弁当箱を私に手渡し、無事にお弁当の交換を済ませた。


だけど私の渡したお弁当はいちおうのところ、バンダナで包んでいたのに

彼から受け取ったお弁当は、バンダナもハンカチにも包まれていない、むき出しのアルミのお弁当箱で

なんだか味気ないなと言ったら彼に申し訳ないと思いながら、そのアルミの蓋を開けると

お弁当箱の中は卵の黄色。その一色だった。



それはオムライスだった。

黄色一色は、オムライスを包む卵の色。




美味しかったよ。

私はそう言って空になったアルミのお弁当箱を手渡しながら、ちょっとの不満を彼に添えた。


だけどね、蓋を開けて卵一色ってどうなのよ?

オムライスは美味しかったけど、卵の上にケチャップでハートマークなんか書いてくれてもよかったのに。



私がそう言うと、彼はほんのすこし、鼻で笑ってこう言った。


ハートは書いたよ。ケチャップライスを作る時に、フライパンの上で何度もハートを書いたよ。



そして彼は私のおでこを突っついてこう言った。


本当に大切なものは見えないんだよ。


このオムライスみたいにな。



彼が指差したお弁当箱は空っぽになっていたけど

そこには見えないものがたくさん詰まっていたような気がした。



たとえば、それはたった一文字の大切なもの。


愛。